太平洋岸宮崎でバルディビア土器風の縄文土器を発見!

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 太平洋岸に面した宮崎市で、南米エクアドルのバルディビア土器とそっくりの文様を持つ縄文土器群が発見されていた。エクアドルのバルディビア土器とは、米国スミソニアン協会のエバンス博士夫妻により縄文土器とそっくりの文様を持つ土器様式として、1965年に発表されたものである。博士らはバルディビア土器文明が唐突に始まっている事から、日本の縄文人が土器文化を携えて太平洋を渡り移住してきたのだと主張している。しかし、バルディビア土器にそっくりの文様を持つ縄文土器は、九州の熊本の土器に限られ、それ以外の地域では、わずかに鹿児島などで発見された土器との類似性が認められる程度だった。
 縄文人が、太平洋を渡り南米にまで到達していたとすると、黒潮に乗って移住したに違いない。しかし、黒潮に乗って太平洋を渡ったのならば、何故、太平洋沿岸からバルディビアの土器と似た文様の土器が発見されないのか。この点が、これまで最大の謎だった。今回、宮崎でバルディビア土器とそっくりの文様を持つ土器が確認された事により、この最大の謎が解明されたと言えるだろう

 バルディビア土器そっくりの縄文土器が発見されていたのは、宮崎市の中心部から15分ほど車で大淀川を遡った跡江貝塚遺跡で、1961年地元のアマチュア研究家 日高氏により発見され県の史跡に指定されていた場所である。1961年と言えば、エバンス博士がバルディビアの土器と縄文土器の類似性を発表するよりも前である。それが、何故今まで表に出てこなかったのか?考えれば不思議な話であるが、それには理由があった。
 跡江貝塚の発掘調査は大分県の別府大学が行い、数々の文様土器が発見された事から県の史跡に指定された。しかし、調査をすれば、それでおしまいとする宮崎県の姿勢から、遺跡の大部分は宅地造成されてしまっている。現在では、貝塚の場所どころか存在すらも知るものはいない状態なのだ。跡江貝塚遺跡が、宅地造成で壊されていく中、発見者の日高氏は何年間にも渡り、造成で剥き出しになった遺跡の土器収集を行った。たまたま、日高氏にバルディビア土器の写真が目に止まり、今回の発見に繋がったのだ。おそらく日高氏以外に、跡江貝塚遺跡の土器文様を即座に思い出せる者はいなかったかもしれない。

 跡江貝塚遺跡は、公式には1万2000年前から7000年前の物とされているが、発見者の日高氏によるとアカホヤ層(喜界島噴火による火山灰層)の直下まで、土器が埋まっている事から、約6300年前の喜界島大噴火まで続いた土器文明であると言う。この遺跡からは、なんと24種類もの文様の土器が発見されており、文様の豊富さでは、九州随一だと言う。土器の底は、何れも平底で、中には雲母を混ぜきらきらさせた土器も存在する。更に、大量の無紋土器も発見されていると言う。又、この遺跡からは、愛媛県上黒岩遺跡から発見された物と同様の通称女神石と呼ばれる線刻石も発見されている。この女神石もバルディビア遺跡で発見され、縄文とのつながりを示す物とされている。しかし、残念ながら女神石は、みかん箱50箱以上にも及ぶ、日高氏の収集物の中に紛れ込み、現在も捜索中である。

INN特派員:ハンニバル43世 2003年10月5日


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