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プロローグ
日本最初の統一国家 大和朝廷は、どのように成立しただろうか?古墳時代や邪馬台国等との関係は?或いは記紀神話との関係は?実に多くの人々が、疑問を抱き研究を重ねてきているが、未だに定説と言える物は存在しない。
この時代の資料は、わずかに中国の歴史書に記されているだけで、日本には、確かな資料は存在しない。大和朝廷成立後に編纂された記紀から、わずかに読み取れるのみである。記紀とは、古事記と日本書紀の総称である。大和朝廷のために書かれた歴史書であるが、一般的に記紀神話として、現在では歴史書と言うよりも神話書として捉えられている。
ところが、記紀神話の内容を裏付けるような驚きの場所が存在した。今までの謎をいっきに解き明かすかもしれない、その驚愕の地とは九州の宮崎県の中心部とも呼べる場所である。私は数年来、この場所に注目してきたが、一人の不屈の研究家の努力により、想像を絶する規模の幻の古代製鉄国家の姿が浮かび上がってきたのだ。
宮崎県は、九州南部太平洋側に面した南国情緒あふれる観光地だ。神話の故郷としても有名なのだが、やはり多くの人々にとっては、暖かい観光地と言うイメージしかないだろう。ある程度の年代の人にとっては、新婚旅行のメッカとしても、記憶されている事だろう。
しかし、宮崎は古代においては歴史の表舞台にたち、日本の国の形成に大きな役割を果たした。ご存知のように記紀神話では、日向の国は重要な舞台なのだ。日向の国は、現在の宮崎県を中心にした九州南東部を指す。それにもかかわらず、古代史を語るとき常にでてくるのは、北九州、出雲、大和の御三家ばかりで、宮崎が話題に上ることは現在ではあまり無い。何故なのだろう。
実は、この裏には意外な歴史の暗部が隠されていた。一人の個人研究家に注目し、調査を進めていく中で、次第に明らかになってきた「幻の製鉄国家」を探る探検に出発しよう。
知られざる古墳群
宮崎市の繁華街から車で15分ほど大淀川を遡った場所に、跡江と呼ばれる地区がある。この跡江地区には、国指定の巨大な生目(いきめ)古墳群が広がっている。同じ宮崎県には西都原古墳群があるが、生目古墳群は、広大な宮崎平野の中心部の一角に位置していて、まさに宮崎市の中心に存在する。
西都原古墳群は、有名である為、多くの人が知っているだろうし、実際訪れた事のある人も多くいるだろう。しかし、生目古墳群は、国指定の重要な古墳群で宮崎の中心部にあるにもかかわらず、まったくといってよいほど知られていない。むしろ古墳群よりも、眼病に御利益があるとされる生目神社のほうが有名かもしれない。
ところが、生目古墳群は、西都原よりも遥かに重要で、大きな謎を秘めた古墳群なのだ。生目古墳群は、西都原古墳群より時代が全体的に古いのである。それどころか、いくつかの古墳は、日本最古と一般的に思われている箸墓古墳と同時代か、更に古い可能性もあるのだ。しかも、生目古墳群には、畿内にある古墳の、ほとんどすべてのタイプがそろっている。
生目古墳は、現在、宮崎県により整備が進められている。古墳パークとして西都原同様に観光地に整備して売り出す魂胆らしい。2003年の12月、調査整備中の生目古墳群を見学する機会があった。この時、案内をしてくれた調査関係者の一人が、思わぬ事をつぶやいた。
「ここの古墳は、まだ知られてないけど、異常に古いんですよ。」「しかも、畿内にある古墳が、大きさが縮小した形ですべてそろっている。」
ここで思わず、私が聞き返した。「と言う事は、畿内の古墳は、ここをお手本に作ったと言う事ですか?」
「そう考えるのが、自然ですよね。誰でもそう思うはずです」「でも、公には、畿内の巨大な勢力にあこがれた宮崎の勢力が、畿内に遠慮して、そっくり同じ物を少し小さく作った事になっています。」
「でもそれでは、時代的に矛盾があるのではないですか?」「ウーン・・・・」
ここで会話は終了した。
さて、この会話を、どう思うだろうか?実は、この会話には、奥深い意味が隠されていた。この会話の意味する所は、後ほど説明するとして、とりあえず先に進もう。
つまり、生目古墳群の示す所は、宮崎の平野部に、非常に古い時代に巨大古墳を作った大きな勢力が存在していたと言う事実だ。しかし、歴史教科書の何処にも、宮崎に付いて詳しくかかれた部分は出てこない。何故なのだろうか?
生目古墳群のある跡江地区と大淀川を挟んで対岸には、瓜生野と呼ばれる地区がある。この瓜生野地区周辺部にも、信じられないほど多くの古墳が広がっている。古墳として認定された場所以外にも数限りない古墳が存在する。あまりに古墳だらけのため開発が進むにつれて、その多くは発掘もされないまま壊されているのが実情である。
瓜生野地区の古墳が、生目古墳群と違うのは、巨大な前方後円墳が、存在しない事だ。ほとんどが、横穴式古墳である。周辺には、上北方、下北方、池内町などがあるが、この付近にも数限りない横穴式古墳、地下式横穴墓、円墳、前方後円墳などが広がっている。
この地区から、もう少し市中心部に下った所には、神武天皇を祭る宮崎神宮があり、その鎮守の森にも船塚古墳と呼ばれる立派な前方後円墳がある。近くの平和台公園や蓮ヶ池にも古墳群が広がる。要するに、宮崎の平野部は、古墳だらけなのだ。図1に大規模な前方後円墳を含む主な古墳群を記したが、あくまで大規模で主な古墳群のみを記してある。小さな古墳群を入れると市中心部から大淀川の流域にかけてほぼ全域が古墳群と言っても差し支えないだろう。宮崎市は、古墳群の中にできた町なのである。
九州古墳時代研究会発行の「宮崎平野の古墳と古墳群」によると、あくまでも概算としながらも宮崎平野部の前方後円墳150基、円墳1153基、方墳4基、横穴墓965以上、地下式横穴墓224以上と言う数字が掲載されている。考古学者の鈴木重治氏による昭和60年発行の著作によると瓜生野地区だけで、昭和30年代の調査で90基以上の横穴墓が確認されていると言う。ところが、瓜生野古墳群は、現在では主要な古墳群に掲載される事も無い。おそらく、ここ50年の間に、その多くは破壊されたのだろう。
これらの数字を見ただけでも、宮崎平野の古墳の数がいかに凄いかがわかるだろう。しかもこの数字は確認されているものだけなので、確認されないまま壊されたものは含まれていない。更に、横穴墓や地下式横穴墓に関しては、外から見えないだけに、いったい幾つあるのか検討もつかないのだ。それにもかかわらず、西都原古墳群のみが整備され、宣伝されてきた為、宮崎平野にこれほどの数の古墳が存在する事を知る者は少ない。
古墳と言えば、お墓である。墓がこれだけあるのだから、そこに暮らした人々が多くいた事は容易に想像できる。しかも、古くから多くの人々が暮らす宮崎平野部の古墳は、そのほとんどがすでに、跡形も無く壊されているのだ。古代においては、古墳の数は、今の数倍は有ったことだろう。つまり、巨大な古代国家が、宮崎に存在したと言う事だ。
巨大墳丘墓の発見
宮崎市の平野部、瓜生野・上北方地区を中心として、長年考古学調査を行ってきた日高という個人研究家がいる。調査と言っても本格的な発掘調査が一人で出来るわけではないので、工事等で剥き出しになった遺跡を見つけては出向き、工事の傍らで出土物を拾い集めるというスタイルをとっている。長年このスタイルを続けているおかげで工事関係者も邪魔をしない限り、おおむね理解があり協力的なようである。
この日高氏が、1996年、瓜生野地区柏田の変電所裏の小山が、人工的に作られた巨大墳丘墓である事に気づいた。実際、調べてみると、その場所は既に大正時代に宮崎市によって史跡として認定されている場所だった。しかし、既に住民の記憶からは忘れ去られ、柏田に大きな古墳があるという噂だけが残っていたようである。
更にこの場所は、古来、笠置(かさご)山と呼ばれていたことも判った。この墳丘墓は、明らかに前方後円墳の形状をしていた。前方部と後円部をあわせると145.5メートルにもなる巨大なものだった。とりあえず日高氏は、この場所を笠置山墳丘墓と名付け、宮崎市に調査を依頼した。
しかし、調査は一向に行なわれ無かった。半年余りがすぎた頃、いきなり試掘が始まった。試掘の段階で、数々の遺物が出ていたので、本格的な発掘もまもなくだろうと期待していたのだが、期待とは裏腹に墳丘墓の一部は、整地作業などで壊され始めた。驚いた日高氏は、連日のように笠置山に赴き、整地作業で壊されていく墳丘墓からの出土物を集めた。そして、笠置山墳丘墓の一部及び周辺から出土したものを、考古学者と相談し時代考証を行った。
その結果、笠置山墳丘墓周辺から数多く見つかった庄内式土器や瓶の破片から、出土物は2世紀後半から3世紀中ごろの物である可能性が出てきたのだ。一般的に、前方後円墳が作られ始めたのは、4世紀だとされている。最新の研究では、畿内の箸墓古墳などは、3世紀の半ば頃まで遡れるかも知れないとされている。だとすると笠置山墳丘墓は、史上最古級・最大級の前方後円墳である可能性がでてきたのだ。
更に、日高氏が笠置山周辺を綿密に調査した所、後円部の先に、もう一つ円形墳丘があった。当初独立した別の古墳と考えたが、笠置山を取り巻くV字溝が、もう一つの円形墳丘墓も含めて取り囲んでいる事が判明した。又、周辺からは続々と笠置山に関係あると思われる遺跡が見つかってきた。
日高氏は、笠置山周辺を徹底的に調べ上げ、周囲から見つかった物を、地図上に描いていった。その結果、意外な事実が次第に明らかになってきた。当初、単体の前方後円墳と思っていた笠置山墳丘墓は、周囲に様々な遺跡を従えた一つの複合体として構成されていたのだ。そして、その複合体は、全体として巨大な鳥の形をしている事がわかった。
残念ながら、羽の右側部分は開発が進んでいるため、まったく残されていないが、左羽部分は明らかに古墳と一体に構成されている事が判る。前方後円墳の形をした笠置山墳丘墓は、巨大な鳥の胴体部分に相当していたのだ。
日高氏の調査による笠置山墳丘墓複合体の詳細を見ていこう。日高氏は、発見される遺物の特徴から、複合体の羽の部分は、土壙墓区、王宮区、工業区に明確に区分けする事ができると考えている。
羽の付け根に最も近い部分が土壙墓区で、土を掘っただけの土壙墓が整然と100基余り並んでいる。もちろん100基すべてを確認したわけではなく、土壙墓の間隔と分布範囲から割り出した値である。更に、その土壙墓には、それぞれに祭祀土器や鉄剣、鉄鏃類などが収められていた。図7は、工事により破壊され始めた土壙墓から、日高氏がかろうじて救い出した鉄剣である。
日高氏は、遺跡部分に工事が入るたびに、宮崎市や県に報告したが、結局たらい回しにされたあげく破壊を止めることは出来なかった。しかし、土壙墓部の一部は、現在も畑の下に埋まっていて、バイパス道路に面した畑の斜面には、土壙墓の断面が確認できる。
次にくるのが、日高氏が王宮区と名づけた区画である。王宮区からは、柱を立てた後が発見されている。しかし、柱の形状からは王宮などの大規模な建物が建っていたとは考えられないと言う。大きな柱を持つ小さな建物の周りを、頑丈な柵がとりまいているように見えるらしい。この事から日高氏は、この場所が被葬者を墓が完成するまで一時的に安置した「もがりの宮」の跡ではないかと考えている。
次に、日高氏が工業区と名づけた所が、羽の先端部分にあたる。この工業区内も見つかった遺物の種類で、いくつかに分類されている。この場所に特徴的なのは、驚くほど大量の石鏃(石の矢尻)が、出てきた事にある。更に、たたら製鉄の炉の跡やガラス球などが見つかっている。
この場所の石鏃は有名で、すでに何十年も前に、雨が降るたびに大量に流れ出して散乱していたという。当時、日高氏を含む、近所の物珍しがり屋が多く集まり、散乱した石鏃を拾い集めていた。勿論、日高氏も当時は、ただ珍しい物がたくさん出るというだけで、拾い集めていたのだ。何故、そこに大量の石鏃が出るかなど、考えても見なかったという。
こうして、日高氏の努力により笠置山墳丘墓の全容が次第に明らかになってきた。この地に、巨大な権力を有する大王が君臨していた事は、間違いないだろう。日高氏は、更に周辺も調査を進めていく中で、興味深い事実を発見した。笠置山とは、大淀川を挟んで対岸にある跡江地区の国指定生目古墳群の生目一号墳も鳥形をしている事を発見したのだ。
生目一号墳は、生目古墳群の中でも、最も古い古墳の一つと考えられている。生目一号墳は巨大な前方後円墳で、後円部の直ぐ横には、円墳である生目二号墳がある。この生目二号墳を鳥の頭と見立てると、なるほど、確かに全体として羽を広げた鳥のような形をしている事が判る。図12参照。
このことから、日高氏は前方後円墳はもともと鳥形古墳であったものが、後に簡略化されて鳥の胴体部分のみが作成されるようになり、前方後円墳となったのではないか考えている。確かに、前方後円墳の一部には、日高氏が羽と称する部分に、小さな造出がついている事がある。これなどは、羽の名残と考えられなくも無い。図13参照。
鳥形古墳のアイデアは、実に面白い考えで可能性は否定できないだろう。しかし、残念ながら現状では証拠が少なすぎ、仮説と言うより単なる仮定の域を出ないだろう。
1999年の夏、笠置山墳丘墓に、再び最大の危機が降りかかった。墳丘墓の一部は、新しく作られるバイパス道路工事予定地にかかっていたのだ。やがて、鳥形墳丘墓の頭部分に工事車両が入ってきた。今回は、これまでの散発的な表面だけの土木工事と違い、墳丘墓の一部を地下深くまで完全に取り壊す大工事だ。このままにしていては、笠置山墳丘墓の謎は永久に解けなくなってしまう。
危機感を抱いた日高氏は、早速宮崎市へ遺跡保護の陳情を始めた。日高氏の必至の訴えが通じたのか工事は一時中断し、工事が始まっていた鳥形墳丘墓の頭にあたる円墳の試掘が始まった。その時点で、すぐに子供用の石棺など出土物が出たのだ。地元の人も見学に訪れ、日高氏の指摘した通り墳丘墓から遺物が出てきた事を確認している。
宮崎で試掘確認
1999年当時、私はまだ日高氏と面識が無かった。しかし、知人からの情報により、日高氏が発見したとされる前方後円墳の事は聞いていた。しかも、その古墳がバイパス道路工事でこわされかかっていると言う。こう聞かされては、いてもたってもいられない。こうして、この年の夏休みは宮崎で過ごすこととなった。
福岡から、レッド・エクスプレスと言うおんぼろ特急で、約4時間、南国宮崎に到着した。かつての新婚旅行のメッカ宮崎は、すっかり寂れて今では昔の面影さえない。とにかく、無地宮崎に到着し、日高氏の兄である日高強氏の案内で、墳丘墓に向かった。今、工事が行なわれているのは、鳥形の頭にあたる部分で、最初独立した円墳と思われていた場所だ。
ここに本当に遺跡があるのか?私の目には、単なる丘を切り開いた工事現場に過ぎない。しかし、その工事現場の丘に登っていったとき、目の前にトレンチと呼ばれる試掘溝が、何本か広がっているのが見えてきた。そして、トレンチのど真ん中には、石室らしい小さな石組みが見える。その横には、石室の蓋が無造作に置かれていた。
間違いない!誰の目にも明らかな遺跡だ。更に、日高強氏に案内され、円墳中央部より、鳥の胴体にあたる前方後円墳の方を見渡してみた。この場所からは、前方部は見えないが、確かに後円部と思える均整の取れた丸いふくらみが観察できる。後円部の上は、まるで髪の毛が生えたように、見事な竹林が生い茂っていた。
少なくとも、日高氏の指摘した通り、鳥形墳丘墓の頭部の地下には、遺物が眠っていた事は、間違いようの無い事実である。日高氏の指摘した通り、頭部の盛り上がりは、単なる自然の盛り上がりではなく、人が加工した円墳なのだろう。そうすると、やはり胴体部は自然の地形ではなく、人工の前方後円墳と言う事になる。
全体として本当に、鳥形を形成しているのかどうかは別として、少なくともこの場所に遺跡があること自体は、間違いのないことのようである。しかし、それにしても巨大だ。近くからでは到底全体を見渡す事など不可能だ。
遺跡を実際に確認したところで、今度は、離れた場所から全体を確認することにした。頭の部分はすでに崩されているので、確認できないが、確かに胴体部分の前方後円墳は、それらしい形をしているのが見て取れる。実際に登ってみれば、人工的な盛り上がりが、はっきり確認できるらしい。しかし、夏の盛りと言う事もあり、マムシの危険があるので、断念した。
その夜は、名物の地鶏のタタキと焼き鳥を肴に、焼酎に舌鼓を打った事はいうまでも無い。
同じ頃、日高兄弟の案内で、地元の人や考古学者も見学したらしい。「実際に墳丘墓と確認されたわけだから、発掘しないわけにはいかないので安心して大丈夫だ」と地元の考古学者も太鼓判を押したそうだ。これで一先ず安心と、本格的な発掘が始まるのを関係者一同固唾を飲んで待っていた。
ところが、期待は見事に裏切られ、工事は突然何事も無かったように再開された。日高氏の再三に渡る訴えにも誰一人調査に来る事無く、墳丘墓は見るも無残に破壊されてしまったのだ。日高氏の研究ノートには、腹立たしい役人の遺跡破壊の実態が、克明に記録されている。ここで詳しく交渉のやり取りを紹介できないのは、残念である。
しかし、逆に考えれば、この道路工事によって日高氏が指摘していた通り墳丘墓が存在した事は確認できた。それに破壊された部分は、巨大鳥形墳丘墓の頭部分のみで、胴体の前方後円部は、それ以前の工事で一部を壊されているものの、かなりの部分が残されている。これ以上の破壊を食い止める為の、尊い犠牲と考えるしかないだろう。
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