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上北は神話の発祥地だった 

 日本最古級、最大級の鳥形墳丘墓は、何を意味するのだろうか?簡単に今まで調べてきた事を整理してみよう。

1.        笠置山墳丘墓に隣接する上北方地区は鶏を天照大神の使い鳥として信仰していた。上北方地区には天照大神の岩屋戸隠れの伝説も残されていた。

2.        瓜生野柏田地区には、ヤマタノオロチ退治の伝説が存在する。笠置山墳丘墓の前方部の先には、八坂神社(別名八竜神社)があり、スサノウノ尊が祭られている。そして周辺には、ヤマタノオロチが住んでいた谷、退治の時に飲ませた酒を造った場所、瓶を置いた場所など、ヤマタノオロチ伝説にまつわる場所が、全てそろっている。更に、ヤマタノオロチ伝説は、周辺の地区に別に、2ヶ所残されている。

3.        弥生時代にさかのぼる製鉄国家の存在が明らかになった。

4.        伝説に彩られた地で、記紀神話の舞台が数多くそろっている。

ざっとこんな感じだろうか。しかし何故、この狭い地区にこれだけ多くの記紀神話にまつわる伝説が存在するのか。

日高氏によると、この地方には、伝説だけでなく畿内地方の有名な地名が数多く残されていると言う。地名と言えば、北九州地方と畿内地方に共通する地名が多いと言う事は有名だが、ここ宮崎平野にも多くの共通地名が存在するのだ。

そもそも、笠置山墳丘墓と名付ける事になった笠置及び笠置山は、京都の有名な観光名所と同じ名前である。読み方は、京都が「かさぎ」と読むのに対して、ここでは「かさご」と呼ばれている。

 上北方地区と大淀川を挟み反対側の跡江地区には、伊勢という地名も残されている。そして、笠置山古墳のすぐ脇を流れ、笠置・柏田と上北を区切っている川は、五十鈴川である。五十鈴川は伊勢神宮の参拝者が、禊を行う川として現在でも有名である。

 更に柏田、笠置、上北方を含む広い地域は瓜生野と呼ばれているが、同じ呼び名で呼ばれていた地域が、大阪南部、大和川河口北岸に存在した。大和川をはさみ南岸には、応神稜、仁徳稜など日本を代表する巨大古墳群がある機内地方の神話の里である。宮崎の瓜生野も、大淀川をはさみ南岸には、巨大な前方後円墳が幾つもある生目古墳群が位置している。

数多くのたたら精鉄の痕跡、古墳、有名な地名に記紀神話の伝説、これらが意味するものは?宮崎平野こそ、畿内地方へ進出した古墳時代人の中心的国だったのだ。こう考えると、全てのつじつまが合ってくる。この地に畿内地方の有名な地名が見受けられるのは、移住した人々が、地名ごと持っていったからに他ならない。

最近では、神話はまったくのフィクションではなく、古くから伝わる故事を何らかの形で繁栄しているとする考え方も、再び一般化してきている。日本の記紀神話がまとめられたのは、大和朝廷成立後である。記紀神話の語る伝説は、高天原、筑紫(日向)、出雲、大和、四つの舞台に分かれているが、それは編纂をしたものが、それぞれの神話にふさわしい地として、割り振ったのではないだろうか。一方、瓜生野地区周辺には、高天原、筑紫、出雲、大和の伝説がごちゃ混ぜにそろっている。この事は、この地が神話を編纂した人々の故郷であり、神話の基になった故事の一部は、実際に、この地で起きたエピソードにちなんでいると考えられるのだ。

皇国思想

 記紀神話によれば、天皇のふるさとは日向の国である。神武天皇が、日向の国美々津浜より船出して、畿内地方を平定した事になっている。有名な、神武東征である。最近では、東征ではなく東遷と言う言葉が好まれているようだが、いずれにしろ天皇は、宮崎から畿内地方に移った事になっているのだ。戦前の皇国思想では、宮崎は天皇家のふるさとで、記紀神話は紛れも無い歴史として扱われていた。そして皇国思想の下、植民地支配、第二次世界大戦へと突き進んでいったのだ。

現在でも、当時の思想を色濃く残している建物が宮崎にはある。平和台公園として整備されている場所に立つ巨大な石塔だ。平和台公園も、前方後円墳や横穴式古墳の密集する丘にあって、園内には数多くの埴輪が飾ってある。

巨大な石塔は、日本の植民地支配下のアジア各地から集めた石材で作られている。石には、寄贈した駐屯地と軍隊の名前がそれぞれ刻まれていて、生々しい物がある。そして、石塔の中央には、大きく「八紘一宇」と書かれている。「八紘一宇」とは、地の果てまでを、一つの家のように統一して支配する事を意味し、日本の植民地支配のスローガンでもあった。

この様に、宮崎は皇国思想の中心的聖地として祭り上げられていたのだ。そして、敗戦と共にこの考え方は一変した。神話は、歴史の世界からフィクションの世界へと180度変わってしまった。神話と歴史の関連は、戦前の皇国思想に結びつくとして一切否定されてしまったのだ。それどころか、神話と歴史が結びつくような発見や研究は、アカデミックの世界では、タブー視されるようになっていった。

つまり、日本の統一国家としての歴史は、畿内地方に始まり、畿内勢力の下にそれまでばらばらだった国々が統一され、ついには大和朝廷が成立したと言う事だ。記紀神話の「神武東征」は、天皇を権威付け、大和朝廷を正当化する為に作られた完全なフィクションと言うわけである。

ここで、冒頭に出てきた生目古墳群での会話を思い起こしてほしい。

 

「ここの古墳は、まだ知られてないけど、異常に古いんですよ。」「しかも、畿内にある古墳が、大きさが縮小した形ですべてそろっている。」

・・・「と言う事は、畿内の古墳は、ここをお手本に作ったと言う事ですか?」

「そう考えるのが、自然ですよね。誰でもそう思うはずです」「でも、公には、畿内の巨大な勢力にあこがれた宮崎の勢力が、畿内に遠慮して、そっくり同じ物を少し小さく作った事になっています。」

・・・「でもそれでは、時代的に矛盾があるではないですか?」「ウーン・・・・」

 

つまり、こういう事だったのだ。宮崎の古墳が、畿内地方の古墳より古くなっては困るのだ。宮崎が先となると神武東征が立証されてしまうのだ。宮崎では、研究者も疑問を投げかけざるを得ない不思議な物が、数多く確認されつつある。しかし、神武東征や神話と結びつきそうな発見は、口を封じざるを得ないのが実情らしい。

ちなみに、上記の会話を交わした研究者に、笠置山墳丘墓の事を尋ねてみた。答えは「向こうは、生目より更に古い。確実に3世紀にさかのぼる。もし日高氏が何か見つけたのなら、それは弥生の遺跡だから古墳ではなく、ただの山だ。」と言い切った。古墳ではない理由は、時代だけなのである。逆手に取れば、日高氏の主張する年代は、確認されたわけである。

通常、古墳が作られ始めたのは、4世紀以降の事とされる。一般には、奈良県の箸墓をはじめほんの数箇所のみが、3世紀後半までさかのぼれると認められている。この中でも箸墓古墳は、日本最古級の定型化された前方後円墳として、卑弥呼の墓の第一候補に上げられている。

ところが、実際、宮崎の古墳を尋ねてみて驚いたのは、3世紀後半まで遡れる可能性のある古墳がごろごろあるのだ。中には、3世紀半ばまで遡れるのではないかと解説されている古墳まである。しかし、あくまで可能性の段階でとどめておき、大きくアナウンスするつもりはまったく無いらしい。

しかし、つい最近流れを変えるかもしれない出来事が大きく報道された。宮崎大学の柳沢教授が、西都原古墳群の中の81号墳は、3世紀半ばまで遡れると言う調査結果を発表したのだ。実際、2005年の調査では、この古墳から瓶棺が出土している。瓶棺は、典型的な弥生時代の遺物なのだ。

実は、以前間接的にではあるが、柳沢教授にも笠置山墳丘墓に対する意見を伺っていた。柳沢教授もまた、笠置は古いので、古墳ではないとコメントしていたのだ。その本人が、弥生時代に遡る古墳があるかもしれないと言い出したのだ。もう笠置山墳丘墓を、古墳と言い切っても何も矛盾しないだろう。

こうなってくると、やはり機内の勢力は、宮崎を出発点としていた可能性が断然高くなってきた事になる。勿論、神話に書かれている事が、そのまま現実だとは思わない。しかし、大筋は現実の出来事を参考に、書かれていると考える方がより自然だろう。神武東征はあったのだ。

古代国家宮崎

それでは、神武天皇を生み出し、強力な製鉄国家を築き上げた勢力はどのように誕生したのだろうか。

おそらく、この地方に自然派生的に起こった勢力ではないだろう。日高氏も、この地に移り住み国を作ったのは、北九州地方の優れた技術を持った渡来人だと考えている。

畿内に起こった大和朝廷の基は、渡来系である事は、多くの研究者が認めている事である。地名の多くが、北九州と機内地方で共通している事も、良く知られている。しかし、宮崎にも多くの機内と共通する地名が存在している事はあまり知られていない。つまり、北九州から畿内に勢力が移る仲立ちとして宮崎の存在も十分考えられるのだ。宮崎がタブー視された為に、その事実が葬り去られたのである。

 それでは、笠置山古墳の被葬者は誰なのだろうか?3世紀にまで遡る史上最大級の古墳である。埋葬されているのは、神話に登場する神々のモデルとなった有名人と考えられるのではないだろうか。鳥形の巨大墳丘墓、天照大神を信仰し鶏を食べない風習、伊勢の神明宮や磐戸神社の存在、これらを総合すると、自ずと答えは導かれてくる。天照大神こそ、この古墳の被葬者と考えられるのだ。

 笠置の笠は、一般的には傘や傘状の物を示すが、別の意味に太陽や月が薄雲にさえぎられた時にできるリング状の輝き(暈)をさす事もある。太陽神である天照が死んで光が陰った状態を指していると考えることもできるのではないだろうか。そして、その笠を置いた場所だから笠置山と考える事もできる。

鶏は太陽を表す神聖な動物で、太陽神天照大神の使いとされている。岩屋戸に隠れた天照大神を、誘い出すときにも「常世のナガナキ鶏」に時を告げさせている。つまり、鶏に関わりが深いのは、天照大神をおいて他にないのである。勿論本当の神様の事ではない。天照大神のモデルとなった実在の人物である。

3世紀前半と言えば、まさに邪馬台国の時代、記紀神話の原型が作られた時代と考えていいだろう。神話の原型となったエピソードは、人里はなれた場所ではなく、人々の生活する場所で作られたはずである。日向を代表する国のあったこの地方は、まさにそんな場所にふさわしい。

天照大神のモデルとなった人物、それは邪馬台国の女王・卑弥呼であった可能性が考えられる。上北方地区は、地元では単に上北と呼ばれているが、その呼び名の通り「神来た地区」だったのだ!

実際、日高氏がたびたび引用している「瓜生野郷土史」によると、上北方は天孫降臨の時、上官が降りてきた場所だとされている。それに対して、「日向地誌」によると下北方は、下級官が降りてきた所だとされている。

知られざる古代国家、宮崎は実在したのだ。

 邪馬台国と卑弥呼

神話の登場人物を除いて、3世紀に遡れる有名な人物は、卑弥呼ぐらいだろう。確実に墳丘を持つ高塚古墳に葬られた事が記録されている歴史上最初の人物である。笠置山古墳が、3世紀中ごろのものだとすると、その規模から言って卑弥呼の墓の第一級の候補地になる事は間違いない。

  実際、天照大神と卑弥呼を同一視する研究者は、大勢いる。問題は、笠置山古墳が卑弥呼の墓だと仮定すると、邪馬台国もこの地方にあった事になる。しかし、邪馬台国の比定地は数多くあるが、宮崎平野だとする説は西都原を除いて聞いた事が無い。宮崎平野の中心部・大淀川下流域が邪馬台国の可能性はあるのだろうか。
 ここで、魏志倭人伝記載の旅程を正統的解釈で見てみよう。

l         帯方郡〜狗邪韓国:南或東に水行、7000余里

l         狗邪韓国〜対馬国:初めて一海を渡る、1000余里

l         対馬国〜一大国:南に渡海、1000余里

l         一大国〜末盧国:渡海、1000余里

l         末盧国〜伊都国:東南に陸行、500

l         伊都国〜奴国:東南に陸行、100

l         奴国〜不弥国:東に陸行、100

l         不弥国〜投馬国:南に水行20

l         投馬国〜邪馬台国:南に水行10日、陸行一月

l         邪馬台国 帯方郡より12000余里

 

現在、邪馬台国は畿内にあったとする説が、様々な根拠より有力になったとされている。畿内説の根拠の一つとしてあげられているのは、魏志倭人伝の旅程である。旅程どおりに旅をすると九州をはみ出てしまうので、畿内が正しいと言うのだ。

しかし、方向的には畿内には絶対に行き着くはずが無く、宮崎が最も正しい方向にある。

最大の問題は、魏志倭人伝の旅程表記(水行や陸行何日などの表記)から推測される距離では、邪馬台国は宮崎の遥か南方になってしまい、存在しようが無いと言う事らしい。この為、魏志倭人伝の方向表記は間違っていて、距離から推察される畿内が邪馬台国だと言うのだ。
 しかし、「魏志倭人伝の方向表記が間違っていると言う考えが成り立つのならば、逆に「距離が間違っている」と言う考え方も成り立つのは当然である。

実際、魏志倭人伝には、もう一つの表記法方である里数も記載されているが、比定されている地名を元に魏志倭人伝の里数を計算すると、魏志倭人伝記載の1里は、魏時代の1里=435mより遥かに小さくなるらしい。その値で、帯方郡より邪馬台国までの12000里を計算すると、里数的には九州を出ることは無い。

そもそも、距離か方向のどちらかが間違っているとして、どちらが間違いやすいだろうか。当然、測ることが難しい距離の方が間違えやすいに決まっている。方向は、太陽か星さえ出ていれば、簡単にわかってしまう。曇の日でさえ、明るさの差で大体の方角は見当がつくのだ。

更に、重要度からいっても方角を間違える事は無いだろう。距離は間違っていても方向さえ正しければ、いつか目的地には到達できる。到着が予定より「早くなるか」「遅くなるか」だけの事だ。しかし、方向が間違っていれば、どんなに距離が正しかろうと絶対に目的地に到達する事は出来ないのだ。こう考えると距離の方が曖昧であると考える方が、遥かに理にかなっているだろう。

ところが現在、邪馬台国畿内説は絶大な人気を獲得している。しかも、一つの古墳「箸墓」が卑弥呼の墓であるとする説が広く信じられるようになってきた。何故なのだろうか。その理由と矛盾点を詳しく検証して見よう。

 

Ø         距離の問題
 まず、伊都国からの距離が、魏志倭人伝の旅程から推測される距離とほぼ同じだと言う事である。だが、これについては、先ほど述べた通り、方角が合ってないのだから問題外なのだ。宮崎であれば、方角は合っている。

Ø         卑弥呼の鏡
 魏志倭人伝によると、卑弥呼は、魏の年号景初3年に使いを送り、銅鏡100枚を贈られている。畿内では、卑弥呼が魏の国から贈られた物ではないかとされる三角縁神獣鏡が大量に出土しているのだ。おそらくこれが最も重要な証拠とされている物である。
 ところが、三角縁神獣鏡に関しては、逆にあまりにも多く出土している事から、魏の鏡を真似た国産の鏡ではないかと言う疑いがもたれている。おまけに三角縁神獣鏡は、古墳時代の遺跡から出土しているのだ。卑弥呼の時代、つまり弥生時代からは見つかっていない。では何故、卑弥呼の鏡と呼ばれているかと言うと、鏡の中に景初3年と年号が刻まれた物があるのだ。この年に卑弥呼は魏に使いを送っていることより、卑弥呼の時代に日本に入ってきた鏡だとされているのだ。
 確かに、三角縁神獣鏡の一部は、卑弥呼の時代のものかもしれない。しかし、500枚も発見されている三角縁神獣鏡が、弥生時代の遺跡からはまったく見つからないのは、やはりおかしくないだろうか。おまけに、中国でも三角縁神獣鏡は発見されていないのだ。
 更に、驚くべきは、魏には無い年号が刻まれた鏡まで出土している事だ。景初4年は、魏には存在しないにもかかわらず、三角縁神獣鏡に刻まれていた。もし三角縁神獣鏡が、魏で作られていたなら、景初4年と刻印された鏡を作成するはずが無い。日本で作られていたからこそ、年号が変わったことを知りえなかったのだ。

Ø         最古の古墳「箸墓」
 箸墓が3世紀後半にまで遡れる最古の定型化された前方後円墳とされている事も重大な証拠としてあげられている。この点も、宮崎にも、3世紀後半にまで遡れる可能性のある古墳が数多く存在する事。更には、3世紀半ば以前にまで遡る可能性のある古墳まである事実を考慮すると、箸墓を卑弥呼の墓とする根拠にはなっていない。卑弥呼がなくなったのは、247年頃とされるので、卑弥呼の墓は3世紀中〜後半にかけ作られたはずである。つまり、この時代まで遡れる可能性のある古墳は、すべて卑弥呼の墓の候補になりえる。

Ø         モモソ姫 卑弥呼説
 箸墓の被葬者がモモソ姫(倭迹迹日百襲姫ヤマトトトヒモモソヒメ)であることも箸墓を卑弥呼の墓とする有力な根拠になっている。魏志倭人伝によれば、「卑弥呼は鬼道で衆をよく惑わす」とあり、シャーマン的存在だった。記紀の中で、シャーマン的存在だった事が記されているモモソ姫は、まさに卑弥呼のイメージどおりだというのだ。この事実に関しては、否定をする事は出来ないが、モモソ姫には夫が存在する。夫の存在しなかった卑弥呼と同一人物と考えるのには、無理があるのではないだろうか。

Ø         機内の青銅器文化
 畿内邪馬台国説の証拠として、「弥生時代には、すでに高度に発達した青銅器文化をもっていて、強大な勢力が存在した」と言う事を上げている研究者も多い。しかし、青銅器文化がそれほど強大な勢力を生み出すだろうか。青銅器は、やわらかすぎて武器や農機具としての実用性はあまり無い。青銅器文化は、外敵の危険が少なく、祭祀が高度に発達した比較的平和な社会の産物だろう。
 一方、魏志倭人伝に見られる邪馬台国は、周辺の多くの国々を従属させた強力な軍事国家群の精神的中心地で、鬼道に仕える女王のもと強大な勢力を誇っていた。青銅器より鉄器を重要視した文化ではないだろうか。又、機内に邪馬台国があったならば、非常に特異な青銅器文化である「銅鐸」の事が、魏志倭人伝に記述されていない事も奇妙である。


 
以上のように、箸墓古墳 卑弥呼の墓説も畿内邪馬台国説も、到底受け入れられない矛盾であふれている。邪馬台国機内派の勢力が強いせいか、邪馬台国九州説はすっかり色あせてしまっているが、決して畿内で決定と言うわけではないのだ。

 邪馬台国への道

ここから、宮崎平野に邪馬台国があり、笠置山古墳が卑弥呼の墓である可能性を検証していこう。
 先ほど簡単に、魏志倭人伝に記載の邪馬台国までの旅程の問題を述べたが、実は、この部分は最も厄介で、論争の的になっている部分である。畿内派、九州派、その他多くの人々が、それぞれの説に合わせて、いろいろな解釈をしているのだ。その中でも伊都国(現在の福岡県前原市を中心とした二丈町、志摩町、福岡市西区の一部を含む糸島地方)から先の解釈方法が、一つではない事が事態をより複雑にしている。

普通に考えれば伊都国から先の国への距離は、伊都国から奴国まで陸行100里、奴国から不弥国まで陸行100里というように、それぞれ加算される事になる。

しかし、原文の書き方から、伊都国から先は、全て伊都国からの距離が示されているという解釈が可能な事が判っているのだ。この場合、伊都国から奴国まで陸行100里、伊都国から不弥国までは陸行100里というように伊都国より先は、すべて伊都国が基点となる。当然邪馬台国までの距離も、伊都国が基点となり水行10日、陸行1月となる。これなら距離は当然、九州内に収まる。

実際、九州説の多くが、「並行読み」或いは「放射読み」と呼ばれるこの距離の読み方に基づいている。

平行読みで、旅程問題は解決出来るにもかかわらず何故、邪馬台国九州説は廃れてしまったのだろうか?最大の理由は、やはり畿内地方で、卑弥呼が魏から送られたと考えられる大量の三角縁神獣鏡がみつかったからだろう。更に畿内地方には、卑弥呼の墓と考えてもおかしくない古い古墳が存在するうえ、邪馬台国から大和朝廷につながったと考えると歴史上もスムーズに事が運ぶからである。
 だが、何故、畿内地方同様に古墳が数多く存在し、神話の地である宮崎が、有力候補地としてあがらないのだろうか。確かに、宮崎の西都原を邪馬台国の比定地にあげる説は、存在する物の、九州説の多くは、邪馬台国は北部九州の域を出ないとする。北部九州説では、旅程の問題は更に厄介になってくる。いずれの説も、かなり苦しい行程解釈をしている。逆にこの事が、畿内説の信憑性を高めているようにも見えるのだ。
 勿論、北部九州や畿内地方などに比べ鏡の出土が、宮崎では少ない事が理由の一つである事も間違いない。銅鐸に代表される青銅器文化も宮崎には無い。しかし、早い時期から製鉄が行なわれ、鉄文化をもっていたからこそ青銅器文化が発達しなかった事も十分考えられる。

単に鉄は青銅器に比べ、遥かに錆びやすいので残っていないだけだろう。おまけに、当時の鉄は褐鉄鉱石である鈴を原料にしていて品質が悪かったのだ。

逆に、宮崎に青銅器文化が無かった事は、宮崎の勢力が畿内に移って、古墳時代を築き大和朝廷を開いた事の重要な証拠と言えるだろう。何故なら銅矛や銅鐸に代表される青銅器は、実は弥生時代のものである。畿内の弥生時代を象徴する青銅器文化は、古墳時代の始まりと共に、完全になくなっているのだ。つまり、弥生時代から古墳時代に移る期間に文化的断絶があったことになる。青銅器文化をもたない宮崎の勢力が東遷してきたとすれば、辻褄が合うのだ。

逆に、邪馬台国が畿内にあり、そのまま大和朝廷に移行したとするならば、青銅器文化は、なぜ弥生時代の終焉とともに突然無くなってしまったのか?と言う疑問が出てくる

 邪馬台国は宮崎だった!

もう一つ、政治思想的な背景も宮崎邪馬台国説が少ない理由と考えられる。戦前までは「神話は歴史であり天皇は神である」とする皇国思想が支配的だった。邪馬台国の女王卑弥呼は、魏に使いを送り自ら魏に忠誠を誓い属国となっている。このような屈辱的な行為を行った国の女王が、天皇家と直接つながる神話の世界と結びついては困るのだ。だから、卑弥呼は北部九州に存在した国の女酋長で、神話の国宮崎と結びつける発想はでてこなかったらしい。

ところが、戦後は一変して皇国思想を否定する事になる。皇国思想を否定する考えでは「神話はフィクションであり、歴史とは何の関係も無い。或いは、あってはいけない」と捉えられた。つまり、この考えでは宮崎は、あくまでフィクションとしての神話の里であり歴史の里であってはいけないと言うことである。
 だから歴史的事実である邪馬台国を宮崎に持ってくると、何らかの形で神話と結びついてしまい、戦後のリベラルな学者は敬遠したと考えられる。ある意味、宮崎に邪馬台国はタブー視されてきたのかもしれない。勿論これが、偏見である事は言うまでもない。

神話を100%フィクションとせず、再び歴史の世界と結びつけるとき、宮崎は邪馬台国の最有力候補地として急浮上してくるのだ。そして、その場所こそ笠置山古墳周辺、瓜生野、上北方地区を中心とする古代製鉄国家と考えられる。
 天照大神が、卑弥呼を連想させる事は、周知の事実である。ヤマタノオロチ伝説も、必ずしも出雲の伝説とは限らない。ヤマタノオロチ伝説=ヤマタイノオロチ伝説=邪馬台国のオロチ伝説と読み取る事が出来る。

魏志倭人伝によると、邪馬台国の第一の官は、伊支馬(イキマ)であるとされているが、笠置山古墳と大淀川を挟んで対岸には、国指定の生目(イキメ)古墳群がある。
 そして、前述のように生目一号墳は、鶏型をしていた可能性がある。邪馬台国の第一の官の中心があったと考える事になんら矛盾しない。
 魏志倭人伝によると邪馬台国の手前には投馬(ツマ)国があったとされるが、この国の官は、弥弥(ミミ)と弥弥那利(ミミナリ)である。現在の地図を見ると宮崎市の北方の日向市に美々津及び耳川の地名が残っている。投馬国とはこのあたりを指すのかもしれない。この場所は、神武天皇が東征に船出した場所として名高い。

もう少し南に下った西都市には、延喜式記載の式内社 都萬(ツマ)神社があり、この場所は、妻と呼ばれている。西都原古墳群の存在といい、投馬国との関連を考えずにはいられない場所である。

魏志倭人伝にでてくる邪馬台国の規模は、常識的に考えると大きすぎるので、誤りであるとする考え方が一般的である。だが邪馬台国が、広大な宮崎平野の強力な製鉄国家だとしたら、想像以上に大きな規模で有ってもおかしくない。何しろ、宮崎平野では、二期作どころか三期作が可能なほど、温暖な気候に恵まれているのだ。そんなに米を作っても売れないのと、味が落ちると言う理由から、やらないだけである。宮崎平野は、大きな人口を支える事ができる十分な食糧生産能力を持っているのだ。

卑弥呼は、魏の王から100枚の鏡を含む様々な物品を送られているが、これらの物品は、卑弥呼が好んだものだと、記述されている。言い方を換えれば卑弥呼が欲したものである。

ところが、これらの物品には鉄製品がほとんど含まれていないのだ。僅かに太刀2本だけが、鉄製品と考えられるのみだ。当時、鉄は最も重要な物だった事は間違いない。それなのに、卑弥呼が望んだ物の中に鉄原料や鉄製品が含まれていないと言う事は、鉄は国内で生産できたので、必要なかったということにほかならない。もし、鉄を輸入に頼っていたならば、卑弥呼が鉄を欲しないわけは無いだろう。明らかに、邪馬台国は製鉄国家だったのだ。

こう述べると、歴史に詳しい人は、大和朝廷は朝鮮半島南部の鉄を求めて、何度も軍事介入しているではないかという反論も出てくるだろう。しかし、この時代になると鉄はすでに一般化していて、品質が求められる時代になっていたのだ。高品位の鉄を求めて、朝鮮半島に進出したまでに過ぎない。

更に、魏志倭人伝には、邪馬台国が温暖な気候に恵まれていた事が明確に示されている。一年中、草木が茂り、新鮮な野菜が食べられると書かれているのだ。又、人々の習俗は、中国のハワイとして知られるリゾート地、海南島と似ているとも書かれている。邪馬台国が、温暖な地にあったことは、明らかなのである。

魏志倭人伝には、邪馬台国の特産品として、絹が魏に送られたことが記されている。しかし、弥生時代の絹は、畿内地方では見つかっていない。絹は北部九州でのみ弥生時代から存在した事が確認されている。

邪馬台国の先の諸国の更に南には、女王卑弥呼に服従しない狐奴国があったとされる。宮崎の南は鹿児島である。鹿児島と言えば、大和朝廷を苦しめた有名な先住部族「熊襲・隼人」の領域である。女王に服従しなかった国とは、熊襲・隼人の勢力をさしているに違いない。

この様に、宮崎平野が邪馬台国であった可能性どころか、魏志倭人伝の記述を見ていくと宮崎平野以外の場所は考えられない。やはり、笠置山古墳は、卑弥呼の墓に違いない。

宮崎までの距離問題

 それでは、宮崎平野を邪馬台国と比定すると、距離の問題はどのように解釈できるのだろうか。まず平行読みが正しいと仮定してみよう。すでに述べたように伊都国は、現在の福岡県糸島地方と言う事で比定されている。ここから、船で南水行10日、陸を1月で、宮崎まで行き着くだろうか。

この行程を船又は陸と読むと、宮崎まで届かないだろう。よって、船で10日進んで、更に陸を1月進むと言う事になる。船で10日で何処まで進むだろうか。おそらく北九州の岸沿いに進み、関門海峡を越え豊後水道を南下する事になる。しかし、豊後水道は、黒潮から分かれた海流が、北向きに流れている。たった10日間では、せいぜい、福岡県内か大分県の入り口付近まで進むのが精一杯だろう。ここでは、取り敢えず大分県の宇佐あたりまで進んだと仮定しよう。

そこから先が陸路である。強い海流に逆らって南下する事が困難だから、途中から陸路に切り替えたのかもしれない。それでは、一月で何処まで進めるのか。現在なら、一月もあれば十分に宮崎まで着く事だろう。古代においては、どうだろうか。十分に道が整備されていれば、到達可能である。しかし、かなり厳しい行程だったかもしれない。

では、従来どおりの読み方で、すべてを加算してみるとどうだろうか。まず、伊都国から南東に向かって、100里で奴国に到達する。奴国は現在の博多付近と比定されている。更に、奴国から東に100里で不弥国に付く。不弥国は同定されていないが、博多の東の宇美町あたりではないかと推測される。

更に、不弥国から先の投馬国までは、南に水行20日となっている。水行と言うからには、船で行くわけだから、一旦博多湾に出てからの距離を示していると考えられる。当然博多湾から真南に船で下る事は出来ないので、目的地を南に見て岸沿いに進み、関門海峡を通過して周防灘を南下したのだろう。さて、船で二十日間でどの付近までいけたのだろうか?潮の流れに逆らう形になるので、せいぜい進んだとしても大分県の別府あたりから、宮崎県北部であろう。少し南には、投馬国の可能性のある日向市の美々津がある。

そこから水行10日、陸行1月となる。両方足したのでは、宮崎を行き過ぎてしまう。しかし、船で行くなら10日、陸路なら1月と解釈すると如何だろうか?これでも、現代の感覚で考えると宮崎を遥かにすぎてしまうだろう。

しかし、宮崎沿岸は黒潮から分かれた強い海流が、進行を阻むように流れている。船で南行するのは、意外に時間がかかったはずである。陸路も、想像以上に時間がかかった可能性がある。温暖な宮崎では、照葉樹林が鬱蒼と茂っている上に、北部から宮崎平野に至る道のりは、かなり険しい。陸路移動するとすれば、現在の国道沿いが古くからのルートであった可能性が高いが、延岡市の手前の宗太郎峠は、現在でも交通の難所となっている。   しかし、これらの、条件を考慮しても、宮崎を行き過ぎてしまうかも知れない。やはり平行読みが正しいのだろうか?

筑後川

 実は、これまで述べた加算読みは、魏志倭人伝の記述に正確には沿っていない。魏志倭人伝では不弥国から先の投馬国までは、南に水行20日となっているが、不弥国は、博多の東の宇美町あたりと推測されるので、南に水行することができない。したがって先ほどは一旦博多湾に出て、関門海峡を越えて南水行したと考えた。

果たしてこの考えは正しいのだろうか。投馬国を大分以南に見立てると、確かに相対的には、南水行になるが、関門海峡までは、南水行どころか北東に進むことになる。さらに博多湾に出るためには、奴国の方向に向かって、100里ほど陸行で戻らなくてはいけない。これを無視して良いのだろうか?

そこで、改めて地図を見直しているうちに、川の存在に気づいた。なんと、九州北部を流れる大河・筑後川の支流、宝満川が北の方向に伸びているのだ。更に、豊満川につながる細い水路が、宇美町のすぐ南側、大宰府辺りまで確認できるではないか。

魏志倭人伝には、水行と書かれているが、海とは書かれていない。もし、水行を川を船で下ると仮定すると、筑後川の支流を南に下って、筑後川の本流に出ることができる。さらに、筑後川本流を南西にくだり、有明海に出たのではないだろうか。

こう考えると、魏志倭人伝の記述に矛盾は生じなくなる。すると、投馬国は有明海に面した場所にあることになる。更に地図を探して見ると筑後川の下流域に、下妻と言う地名がある事に気づいた。現在の地図では、見当たらないが下妻があると言う事は、妻と言う地名もあったのだろう。そうすると筑後川下流域が投馬国であったのでは無いだろうか。

確かに、筑後川下流域まで川を下るのに20日を要するだろうかと言う疑問もあるが、不弥国から直接水行するためには、このルート以外に考えられない。狭く曲がりくねった水路を航行するのには、意外と時間がかかったのかもしれない。

では投馬国から先は如何だろうか。まず、南水行10日で、鹿児島県南部まで行き、そこから、九州を横断したのでは無いだろうか。九州を横断する必要があったので、陸行1月が、有ったのだ。そうすると、その九州横断経路には、霧島連峰、高千穂の峰が存在するではないか。これこそ天孫降臨のルートそのものでは無いだろうか。北部九州から宮崎平野に至る九州横断ルートが確立していたのだ。

つまり、魏志倭人伝の記述を、素直に記述通りシンプルに読み解くと、宮崎平野に到達可能なのだ。

エピローグ

  邪馬台国が、宮崎平野にあったとしたら、笠置山古墳こそ卑弥呼の墓と考えて間違い無いだろう。まず、場所的には申し分の無い事はわかっている。次は、年代だが、卑弥呼が死んだのは3世紀半ば、247年前後である。

 笠置山古墳は、正式な発掘が行なわれていない為、年代を特定する事は難しい。しかし、日高氏は、笠置山古墳周辺で庄内式土器を見つけている。この土器の作られ始めた年代は研究者により大きく見解が異なるが、最も古い推定で2世紀後半であるらしい。つまり、庄内式土器が卑弥呼の時代3世紀半ばに作成されていた可能性は高い。決して笠置山古墳の年代を特定したとは言いがたいが、年代的に矛盾しない事も事実である。

 実際、考古学者も笠置山周辺の遺跡は、弥生時代の遺跡と考えている事からも、3世紀代の古墳である可能性は非常に高いといえるだろう。

 次に大きさを見てみよう。魏志倭人伝に記載の卑弥呼の大いなる塚の径は、100歩余りである。これを、現在の大きさに換算すると、おおよそ120m前後になると言う。残念ながら、魏志倭人伝には大塚の形は記されていない為、何処を図るかと言う事が問題だが、塚というぐらいなのだから、盛り上がっている部分の長径つまり前方部と後円部をあわせた値が、一番可能性が高いだろう。

笠置山古墳は、前方部と後円部を合わせた長径が、145.5mである。多少、魏志倭人伝の記述する卑弥呼の大塚より大きい値では有るが、これぐらいのずれは、誤差範囲に含まれるだろう。

一方、古墳の規模から言っても卑弥呼の墓である可能性が高いとされる箸墓古墳の全長は、276mもある。明らかに大きすぎるのだ。どうやら、箸墓古墳の大きさが卑弥呼の墓と一致すると主張しているのは、後円部の直径のみをとっての話らしい。つまり、前方部は完全に無視しているのだ。いくらなんでも都合良すぎはしないだろうか。

 卑弥呼が死んだ時、卑弥呼と共に100人余りが殉死したとされる。・・とすると当然、卑弥呼の墓の周辺には、100人の殉死者の墓がなければおかしい。笠置山古墳には、これがあるのだ!鳥型の羽の部分には、穴を掘っただけの土壙墓が、整然と並んでおり、推定でその数は100基ほどなのだ。

 今まで、卑弥呼の墓ではないかと言われている古墳は数多く有るが、殉死者の墓を伴っていたと言う話は聞いた事が無い。しかし、死後の卑弥呼を守り、お世話をする為の殉死者が、墓も無く粗末に扱われる事は考えられない。卑弥呼の墓の周辺には、必ず彼等の墓があるはずなのだ。そういう意味では、笠置山古墳は、他の候補地と比べ大きく一歩リードしている事になる。

 結局、この謎に決着をつけるためには、笠置山の発掘が行なわれる以外に方法は無いだろう。だが、現状では、実現の可能性はほとんど無い。せめて、将来の調査のためにこれ以上の破壊が進まない事を祈るばかりだ。 

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